貴乃花と宮沢りえの破局理由とは?時を同じくして注目される2人

日馬富士の暴力問題から一転、今度は弟子である貴公俊の暴力問題で自身が監督責任を問われる形になった貴乃花親方。

降格処分が決まったものの、これで一連の問題に決着がついたように見えます。

一方、V6の森田剛と結婚を発表した宮沢りえ。

ビッグカップルの誕生に世間が湧きました。

このように同じタイミングで新たな門出を迎えた2人ですが、1992年にも、2人で人生の再スタートをしています。

それは電撃的な婚約会見。

からの、破局。

当時何があったのか振り返ってみたいと思います。

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時の人どうしの2人が婚約会見

当時2人の人気は凄まじいものがありました。

婚約会見を開いたのは1992年。貴乃花(当時は貴花田)は20歳、宮沢りえは19歳でした。

当時の貴乃花

元号が「平成」となりまもなく、空前の相撲ブームが巻き起こりました。

その主役だったのが貴花田と若花田の兄弟力士で、「若貴フィーバー」と呼ばれました。

兄弟は2人ともキャラも違って、どちらも本当に大人気。

今では想像しづらいですが、「相撲ギャル」なる若い女性が両国国技館に殺到するほど。

貴乃花は特に人気があり、まさにアイドル並みの扱いでした。

スター街道をまっしぐらにかけのぼり、20歳で大関、22歳で横綱となります。

婚約会見を開いたのは大関に昇進する2ヶ月前のことでした。

当時の宮沢りえ

宮沢りえの人気も極めて高いものがありました。

11歳の頃にモデルとしてデビューしてから、瞬く間にトップアイドルの仲間入りを果たしました。

代表作は1988年の映画『ぼくらの七日間戦争』。

この映画で主演をつとめた宮沢りえは日本アカデミー賞新人賞を受賞しています。

1991年には写真集『Santa Fe』を発売。

これは異例の人気絶頂時のヌード写真集で、150万部のベストセラーとなりました。

今乃木坂46の白石麻衣の写真集が度重なる重版で話題となっていますが、それですら30万部足らずです。

当時の宮沢りえの人気がどれほどだったか少し想像できますよね。

このように、国民的な人気を博していた2人が婚約会見を行ったのです。

今で言えば、嵐の松潤と広瀬すずが婚約するようなものでしょうか?

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突然おとずれた破局

1992年に電撃すぎる婚約発表をした貴乃花と宮沢りえでしたが、わずか2ヶ月後、破局。

これまた電撃すぎる話です。

突如として終わりを迎えた2人。

理由はなんだったのでしょう。

2人とも多くは語らず、結局は真相は謎のままに終わっていました。

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破局の裏に美川憲一の存在が

2人の破局には美川憲一が一枚噛んでいました。

破局騒動から22年が過ぎた2014年のこと、「頼まれてぶっ壊したのよ、私が」と語ったのが美川憲一でした。

どうやら宮沢りえの母親こと「りえママ」から、宮沢りえが結婚を考え直すように説得を依頼されたのだとか。

りえママは宮沢りえのプロデューサーでもありました。

その立場からすると、また母親の立場からもでしょうか、宮沢りえが貴乃花と結婚して将来おかみになられては困るわけです。

りえママは宮沢りえを女優として大成させたいという思いがあるので。

このような理由で、りえママと信仰の深かった美川憲一が登場してきたのです。

宮沢りえを電話で説得したらしいのですが、そのとき彼女は電話口で涙を流していたそうです。

こうして2人は別れを選びました。

その後貴乃花は横綱に、宮沢りえは大女優となりました。

2人の選択は間違ってなかったのでしょう。

いい意味で人生の再スタートになったのではないでしょうか。

そして現在、貴乃花と宮沢りえは、期せずして、またともに新たな扉を開こうとしているのですね。

貴乃花と宮沢りえの破局理由まとめ

一連の暴力問題で最終的に降格処分が決まった貴乃花。

森田剛との結婚を発表した宮沢りえ。

同じタイミングで人生の新たな局面に進もうとしている2人は元恋人どうし。

1992年に婚約発表、そしてわずか2ヶ月後破局を迎えました。

破局には美川憲一、りえママが絡んでおり、2人は別れたものの、どちらも我が道を突き進み、見事に大成しました。

計らずも同じタイミングで人生のターニングポイントを2度経験した2人。

これからまた上昇気流にのっていくといいですね。

それでは最後までお読みくださりありがとうございました。

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